鍼・灸・マッサージ、リフレクソロジー、アロママッサージ、タイ式マッサージを始め各種マッサージ、ストレッチ、筋トレすべてに於いて常に念頭がある。
「感覚」である。
「触覚」「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」。五感の中での「触覚」は、果てしない追及ポイントである。手技、小道具を出す前に「感覚」ですべての方向性や強弱加減を流れの中で判断していく。
「視覚」では、全身バランス、動作、くせ、服装(服装からの情報量は多いのです。冷えなどの推察もできる)
「触覚」では温度感、むくみ、筋バランスなどなど
セミナーをしたり、たくさんの同業の先生方のお話を聞きにいくことなどは、大変貴重な経験であり刺激も多いものです。学びつづけることで、自分が進化する。
先日、鈴木一馬先生の講義を拝聴した。
テーマ「気づき」
全身を「無」の状態で情報を得る。得ようと自分からいくのではなく、自分を「無」の状態にすることで「気づく」「感じる」ことを研鑽。あくまで「気づこう」とすることではない。
「五感を研ぎ澄ませる」。崇高な世界である。
ありがたいことにそんな「神」のような存在の大先生に、今年の夏、出会う機会があった。「やっぱりスゴイ」とつくづく感じる。(こんな簡単な言葉では伝えきれない)醸し出す人間の暖かさ。そこには時間の経過から生まれてくるものもあるだろう。「人間味」ってすばらしい。あの感覚を覚えていようと思っている。
「無」。私には難しい。姉妹から台風といわれているスジ子で雑念ぐるぐるです。「はい、集中!」といいながら「無」のスイッチをいれるときもあれば、スイッチをいれたままの状態で全身に触れたり話をしながらの時もある。相手の中心に入り込み共鳴があり誘導もある、特徴は少し攻撃的な側面もある。(性格だな・・・。)
最終的に周囲から包み込むような方向性をもった治療に変化するらしい。
施療相手の調子が落ちている時、リラックスを求めている状態はデリケートなものです。その施療相手にも「感性」があります。ここに「手が合う合わない」という言葉があります。「満足感」これは「感覚」ですね。この感覚を感じていただけないとき、「手が合わない」というのでしょうか。それは施術者が「万能」ではないことの逃げ口上でしょうか。確かにお互い人間です。相性がないわけではありません。しかし、この扉を選び叩いていただいたことに、縁はあるのです。私たちは、この世界を志した目的は「探究心」「癒し」など様々だったとはいえ、純粋だったはずです。仕事として選択、努力。その努力は姿勢として施術に現れます。カラーになり、キャラクターも出来上がります。同時に私達は、技術だけでなく「感性」を磨くことも学びます。その「感性」は施療相手を知る手段になります。筋肉の調子を知るだけでなく口にしない状況もくみとります。
しかし気を付けないといけないのは、技術に偏り押し付けてしまう傾向もあるという可能性です。しかし、指針をしっかり示すことも実は大事で、それによって安心感を得ます。そう「手が合う合わない」はお互いの共鳴、同調が必要です。経験が浅くても真摯な姿勢は共鳴を呼びます。
施術者の真摯は必ず相手に伝わるものです。
主に施術している手の横にそえる手側を「マザーハンド」と呼ぶらしい。